ゴンです。
ひかりの誕生日の1月2日はちょうど百か日でした。
別に何をするわけでもなかったのですが、不思議な気分ですね。
みなさんに気にしていただいてありがたい限りですが、父も母も元気にしております。毎日というか、いろんなタイミングでひかりの名前が会話に出てきますが、それでもすべてそれらは楽しい話題ばかりです。
母がこの間ひかりの部屋で彼女がロンドンに旅行に行ってたときに撮っていたビデオを見つけたそうで、見せてもらいました。
彼女が撮っているのでほとんど彼女は映っていないのですが、たまに見せる姿と、そして流れる彼女の声に、本当にいなくなったことが信じられない気持ちが増します。
つい、「なんか、ねーちゃんは旅行に行ってるみたいやな、今でも」と言ってしまったくらいです。
彼女の声は静かにそして楽しさに弾んでいました。。。
2007年は祖母が、そして2008年はひかりが旅立ちました。
2009年というこの1年が、私たち家族にとって、そして私たちを支えてくれる友人含めた皆様にとって、ステキな年にきっとなりますよう。
ではでは。
ゴン
2009年01月05日
2008年10月18日
再びゴンより
あたたかいコメントをみなさんありがとうございます。
お礼が遅れて申し訳ありませんでした。
ひかりもきっと喜んでいることでしょう。
何人かの方に、このブログが汚されないように管理してもらいたいとの要望がありました。私も今でもこのブログを読んだりすると、ひかりがまるで生きているような気になりますし、友人の方もきっと同じ気持ちではと思いますので、できるだけのことはしたいと思っています。
ただ、残念ながら今のところ、ひかりのPCからしかこのようなことができない状態でして、私も実家にはたまにしか帰ってこられませんので、みなさんのご期待に応えられるほど、ちゃんと管理できるかどうかはなんとも言えません。
ひかりの友人の方ともいろいろ相談しながら、良い管理の仕方を考えたいと思いますので、少し時間をいただければと思います。
−−−
いま、仕事の都合でたまたま実家に帰ってきていますが、母はまだまだ立ち直れていない状況です。ひかりががんと分かってから2年半の間、一番そばにいて一番心配して、そしてひかりのために一番尽くしていましたから、月並みな言い方ですが、ぽっかり穴が開いたような感じなのかなと思います。
こればかりは時間が解決してくれるしかないのですが、母を知るひかりの友人の方々には、たまには顔を出して、あほな話でもしてくだされば息子としてはうれしい限りです。母もひかりも笑うのが大好きで、私たち家族には笑いが絶えませんでしたから。
部屋もいっぱい空いていますので、みんなで泊まってくださっても大歓迎ですよ^-^
勝手ばかり言いますが、よろしくお願いいたします。
さて、ここにこれを載せるのがよいかどうかはわからないのですが、このブログにも登場していたひかりの友人のF君から、Relay for Lifeというイベントのために、私のひかりに対する今の思いを書いてほしいとの依頼を受け、2週間ほど前にひかりへの手紙を書きました。
このイベントは、がんと闘っている患者の方、その家族の方、そしてがんで家族を亡くした家族の方々が、手をつないだりしながら、夜通しいろいろと歩きながら語り合うものということで(Fさん、私の理解が間違っていたらごめんなさい)、その歩く足元に置いておく紙の灯篭の中に手紙を入れておき、読みたい人が読んだりするようなものだそうです。Fさんも、ひかりが元気なら、このイベントに連れて行きたいと思ってくださってたんだそうです。
このブログを見てくださっている人は、ひかりのことを応援してくださっていた人たちですので、弟からの視点というか、勝手な私の思いではありますが、ひかりという人間を少しでも知っておいてもらえればなと思い、恥ずかしながら以下に載せたいと思います。少しでも彼女の生前の気持ちがみなさんに伝われば幸いです。
−−−−
大好きなねーちゃんへ
最後の最後は、誰にも別れを告げず行っちゃったね。「さよなら」さえ言う暇がないなんて、ねーちゃん自身が思ってなかったよね、きっと。
今回の入院もきっと元気になるための入院だったんだよね。年末には歩けるようになるために、入院しても足ふみをして歩く練習をしてたって聞いたもん。
亡くなる2日前も、あんなに呼吸することすらしんどいときに、俺にがんばって電話で、「笑(わろ)うたら、元気になるやんかぁ。だから私笑いたいんや。笑えるDVD送ってくれるかな」って言ってたしね。
あんなにつらい状況のなかで、そこまで前向きで弱音もはかず、ただただ自分の姉ながら誇りに思うよ。
すごいね、ねーちゃん。
俺とねーちゃんは、結構性格が似てるよね。
だから、ねーちゃんは、もし自分がもうだめだって思ったのなら、何かしら家族とか友達に、思いを遺してるんじゃないかと思って、亡くなった夜に、ねーちゃん愛用のパソコンの中を、すみからすみまで探しちゃったよ。
最後の最後の、ねーちゃんの言葉を。
ねーちゃんの痕跡を。。。
気持ちを。。。
思いを。。。
そう、ねーちゃんの『生命のカケラ』を探して。。
でも全然そういうものは見つからなかったよ。そんなもの、微塵も感じられなかった。本当は、最初、ちょっと残念に思ってたんだ。
だけど、見つからなかったからこそ、「ああ、そうか。本当に最後の最後まで「死ぬ」なんて気持ちはなかったってことなんだなあ」って改めて気づいたんだ。気づくの遅いよね、俺。
きっと、俺もお袋も、みんなみんな、何かしらねーちゃんの言葉が欲しかったんだろうね。お袋は、「もっと何かしてあげられたんじゃないやろか。あの娘は不満があっても気を使って私に言わんかっただけかもしれん。優しい娘やから。何も言わずに逝ってしまったからそれがわからなくてつらい」って今日も泣いてたんだよ。ねーちゃんがお袋やみんなに感謝をしてないわけはないのにね。
きっとねーちゃんは、死を察知してその前に一言でも何か言う暇があったら、すべてを差し置いて、一番初めにお袋に、「ありがとう」って言ってたはずだよね。
でもまさか自分が死ぬなんて考えてないから、生きよう生きようと、どの瞬間もしていたから、言わなかったんだよね。
少し落ち着いた今は、遺された言葉がなくても、そう、遺された言葉がないからこそ、ねーちゃんの「生きようとする」思いが理解できました。
だからもう、最期の言葉なんてなくても俺は平気。ねーちゃんの気持ちは、心に焼き付いているから。きっとねーちゃんならこうする、とか、こう思う、って100%わかる自信があるよ。
お袋にもそういう風に伝えておいたよ。それと、ねーちゃんはずっと感謝してたよってね。そしたら電話の向こうで少しだけ笑ってた。涙声でね。だから、心配しないでね。ちゃんとねーちゃんの気持ちはみんなに伝わっているから。俺たち家族が伝えられるから。
でもね。どんなにねーちゃんの気持ちがわかっても、この世界にねーちゃんがいないと思うと、さみしさがこみあげてくるよ。心の中心が、しめつけられて、苦しくなるよ。
あまりにもねーちゃんとの思い出がありすぎて、やさしさが心に染みついてて、姿が目に焼きついてて、言葉が耳の奥でこだましてて、、。
ちょっと油断すると涙が溢れます。ねーちゃんのことを笑顔で思い出すにはもうちょっと時間がかかりそうです。
もうそろそろおばあちゃんには会えたのかな。
おじいちゃんとおばあちゃんは昔のようにケンカしてる?
まあ、ねーちゃんが間に入ったら、すぐに二人とも笑顔になっただろうね。ねーちゃんはみんなにステキな笑顔を運べる人やもんね。
大好きなねーちゃん。
俺たち家族が愛して止まないねーちゃん。
また会える日を楽しみにしています。
お土産に、親父の楽しい話をいっぱい持っていくからね。
だからちょっとだけバイバイ。
天国からおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に、俺たちみんなを見守っていてね。
2008年10月6日 ゴン
お礼が遅れて申し訳ありませんでした。
ひかりもきっと喜んでいることでしょう。
何人かの方に、このブログが汚されないように管理してもらいたいとの要望がありました。私も今でもこのブログを読んだりすると、ひかりがまるで生きているような気になりますし、友人の方もきっと同じ気持ちではと思いますので、できるだけのことはしたいと思っています。
ただ、残念ながら今のところ、ひかりのPCからしかこのようなことができない状態でして、私も実家にはたまにしか帰ってこられませんので、みなさんのご期待に応えられるほど、ちゃんと管理できるかどうかはなんとも言えません。
ひかりの友人の方ともいろいろ相談しながら、良い管理の仕方を考えたいと思いますので、少し時間をいただければと思います。
−−−
いま、仕事の都合でたまたま実家に帰ってきていますが、母はまだまだ立ち直れていない状況です。ひかりががんと分かってから2年半の間、一番そばにいて一番心配して、そしてひかりのために一番尽くしていましたから、月並みな言い方ですが、ぽっかり穴が開いたような感じなのかなと思います。
こればかりは時間が解決してくれるしかないのですが、母を知るひかりの友人の方々には、たまには顔を出して、あほな話でもしてくだされば息子としてはうれしい限りです。母もひかりも笑うのが大好きで、私たち家族には笑いが絶えませんでしたから。
部屋もいっぱい空いていますので、みんなで泊まってくださっても大歓迎ですよ^-^
勝手ばかり言いますが、よろしくお願いいたします。
さて、ここにこれを載せるのがよいかどうかはわからないのですが、このブログにも登場していたひかりの友人のF君から、Relay for Lifeというイベントのために、私のひかりに対する今の思いを書いてほしいとの依頼を受け、2週間ほど前にひかりへの手紙を書きました。
このイベントは、がんと闘っている患者の方、その家族の方、そしてがんで家族を亡くした家族の方々が、手をつないだりしながら、夜通しいろいろと歩きながら語り合うものということで(Fさん、私の理解が間違っていたらごめんなさい)、その歩く足元に置いておく紙の灯篭の中に手紙を入れておき、読みたい人が読んだりするようなものだそうです。Fさんも、ひかりが元気なら、このイベントに連れて行きたいと思ってくださってたんだそうです。
このブログを見てくださっている人は、ひかりのことを応援してくださっていた人たちですので、弟からの視点というか、勝手な私の思いではありますが、ひかりという人間を少しでも知っておいてもらえればなと思い、恥ずかしながら以下に載せたいと思います。少しでも彼女の生前の気持ちがみなさんに伝われば幸いです。
−−−−
大好きなねーちゃんへ
最後の最後は、誰にも別れを告げず行っちゃったね。「さよなら」さえ言う暇がないなんて、ねーちゃん自身が思ってなかったよね、きっと。
今回の入院もきっと元気になるための入院だったんだよね。年末には歩けるようになるために、入院しても足ふみをして歩く練習をしてたって聞いたもん。
亡くなる2日前も、あんなに呼吸することすらしんどいときに、俺にがんばって電話で、「笑(わろ)うたら、元気になるやんかぁ。だから私笑いたいんや。笑えるDVD送ってくれるかな」って言ってたしね。
あんなにつらい状況のなかで、そこまで前向きで弱音もはかず、ただただ自分の姉ながら誇りに思うよ。
すごいね、ねーちゃん。
俺とねーちゃんは、結構性格が似てるよね。
だから、ねーちゃんは、もし自分がもうだめだって思ったのなら、何かしら家族とか友達に、思いを遺してるんじゃないかと思って、亡くなった夜に、ねーちゃん愛用のパソコンの中を、すみからすみまで探しちゃったよ。
最後の最後の、ねーちゃんの言葉を。
ねーちゃんの痕跡を。。。
気持ちを。。。
思いを。。。
そう、ねーちゃんの『生命のカケラ』を探して。。
でも全然そういうものは見つからなかったよ。そんなもの、微塵も感じられなかった。本当は、最初、ちょっと残念に思ってたんだ。
だけど、見つからなかったからこそ、「ああ、そうか。本当に最後の最後まで「死ぬ」なんて気持ちはなかったってことなんだなあ」って改めて気づいたんだ。気づくの遅いよね、俺。
きっと、俺もお袋も、みんなみんな、何かしらねーちゃんの言葉が欲しかったんだろうね。お袋は、「もっと何かしてあげられたんじゃないやろか。あの娘は不満があっても気を使って私に言わんかっただけかもしれん。優しい娘やから。何も言わずに逝ってしまったからそれがわからなくてつらい」って今日も泣いてたんだよ。ねーちゃんがお袋やみんなに感謝をしてないわけはないのにね。
きっとねーちゃんは、死を察知してその前に一言でも何か言う暇があったら、すべてを差し置いて、一番初めにお袋に、「ありがとう」って言ってたはずだよね。
でもまさか自分が死ぬなんて考えてないから、生きよう生きようと、どの瞬間もしていたから、言わなかったんだよね。
少し落ち着いた今は、遺された言葉がなくても、そう、遺された言葉がないからこそ、ねーちゃんの「生きようとする」思いが理解できました。
だからもう、最期の言葉なんてなくても俺は平気。ねーちゃんの気持ちは、心に焼き付いているから。きっとねーちゃんならこうする、とか、こう思う、って100%わかる自信があるよ。
お袋にもそういう風に伝えておいたよ。それと、ねーちゃんはずっと感謝してたよってね。そしたら電話の向こうで少しだけ笑ってた。涙声でね。だから、心配しないでね。ちゃんとねーちゃんの気持ちはみんなに伝わっているから。俺たち家族が伝えられるから。
でもね。どんなにねーちゃんの気持ちがわかっても、この世界にねーちゃんがいないと思うと、さみしさがこみあげてくるよ。心の中心が、しめつけられて、苦しくなるよ。
あまりにもねーちゃんとの思い出がありすぎて、やさしさが心に染みついてて、姿が目に焼きついてて、言葉が耳の奥でこだましてて、、。
ちょっと油断すると涙が溢れます。ねーちゃんのことを笑顔で思い出すにはもうちょっと時間がかかりそうです。
もうそろそろおばあちゃんには会えたのかな。
おじいちゃんとおばあちゃんは昔のようにケンカしてる?
まあ、ねーちゃんが間に入ったら、すぐに二人とも笑顔になっただろうね。ねーちゃんはみんなにステキな笑顔を運べる人やもんね。
大好きなねーちゃん。
俺たち家族が愛して止まないねーちゃん。
また会える日を楽しみにしています。
お土産に、親父の楽しい話をいっぱい持っていくからね。
だからちょっとだけバイバイ。
天国からおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に、俺たちみんなを見守っていてね。
2008年10月6日 ゴン
2008年09月29日
弟のゴンより報告です
ひかりのブログを楽しみにしてくださっていた皆様、それからひかりの回復を楽しみにくださってた皆様へ
いまひかりが愛用していたパソコンに向かって書いています。
私たちの最愛のひかりが、2008年9月27日の土曜日 21時36分に、家族、友人に見守られながら、旅立ちました。
このブログを読んでくださっていた方々は、更新がないことを非常に心配してくださっていたのではと思い、ひかりの友人とも相談した結果、弟である私が、その報告をさせていただくことにしました。
まだ心の整理などできていない状況ですし、当日は気が動転していたこともありますのでひどい文章になってしまいますが、亡くなった当日の様子を書かせていただきます。
ーー
ひかりが最後に投稿したブログの後、先週の火曜日に、あまりにしんどくなった本人の入院したいとの要望で入院しました。
この1ヶ月で2回入院していましたが本人としては入院したらまた元気になって退院できると思っていたのかもしれません。
そのような本人の望みに反して土曜日の早朝、それまで母にあれしてこれしてと注文の多かったひかりが、突然、目を覚ませなくなり、昏睡状態のようになってしまったそうです。
あまりに目を覚まさないことを不安に思った母からの指示で15時頃に弟から私に「ねーちゃんがやばいかもしれん。早く帰ってきてほしいってお袋が言ってる」との電話。
16時半の飛行機に飛び乗り18時半頃に病室に到着したときには、かなりしんどそうに息をしていて、呼びかけにも返事ができない状態でした。ただ、返事はできないもののしっかり呼吸はしていましたので、まだ少しは時間に余裕があるかなとは思っていました。
実は前日の金曜日に母は主治医の先生に呼ばれ、「がんが全身に拡がっている状況で、腹水もたまっており、もうかなり危ない状態です」と言われ、覚悟をしていた母からの「10月いっぱいくらいでしょうか」との問いにも「それはかなり難しいと思います」との回答があったのですが、私はその日にその話を電話で聞いていました。
ですから、長くはないと覚悟はしていましたが、まさかそんなにすぐには来ないとも思っていました。だから、ひかりの様子を見た後でも、横浜で準備をしてくれていた妻には「数日は大丈夫じゃないか」と伝えたほどです。
しかしながら、時間を追うごとに呼吸が荒くなり、肩で息をするようになってきました。きっと20時ごろだったのではなかろうかと思います。
病室には彼女が危ないという知らせを受けた親戚や友人の方々が次々と訪れてくれていました。ひかりの様子を見た後のみん
なの顔は、悲しみというよりも、彼女の突然の状態の変化が信じられない驚きの表情の方が多かったのではないでしょうか。
私は彼女の友人たちに場所を譲り、待合スペースのような所でいました。
そこに、知り合いの方から21時ごろに「どうも心電図が弱ってきてるって看護師さんが言うてるで」との連絡。
病室に入り、姉の枕元に行くと、激しかった呼吸がどんどん小さくなってきてました。何も聞いていなければ落ち着いてきたのかなと思うほどです。でもその呼吸は安定というより、どんどん弱く。。
そして、家族や友達の、部屋からあふれだすほどの彼女の名前を呼ぶ声がひびきわたる中、彼女だけが静かに、ゆっくりと、本当にゆっくりと呼吸をすることをやめていき、ついにその呼吸は止まってしまいました。
主治医の先生のチェックの間に少しの静けさが漂った後、「私の時計で9時36分です。」との言葉で、今度は嗚咽と涙が病室にあふれました。母の「こんなのいやや」と泣き叫ぶ声がみんなの涙をさらに誘いました。
ーーーー
私の力不足でちゃんとは伝えられていませんが、このような最期でした。
彼女は非常に我慢強い人でしたし、7月くらいからは、自宅で痛みと闘う生活を続けてきていたようでしたので、簡単にそんなにつらい思いをせずに亡くなったとは言えないですが、それでも、あまり苦しまなかった最期という表現はできるのではないかと思います。
日曜日に通夜、そして月曜日の今日、お葬式と火葬を行い、初七日まで無事に終了しました。
この3日間、ひかりを愛してくれていた友人の方々には本当にお世話になりました。私たち家族はみなさんの愛情に支えられました。本当にありがとうございました。
最後に少し長くなりますが、姉の死に際しての私の気持ちを書かせていただきます。
覚悟をしていたとは言え、本当に悔しくて悔しくてなりません。
なぜ姉のような優しく愛される人がこのような目にあうのかと本当に思います。
姉は、自分ががんであることが分かってからも、「私は今までやりたいことをやりたいときにやってきたから、死ぬのは怖くはない」って言ってました。「死んだらおばあちゃんに会えるし」とも言っていました。
でも、それでも、自分が母より先に死ぬと彼女がつらい思いをするから一日だけでもいいから母よりは長生きしたいというのは一番の希望だったと思います。
姉は本当に生きようとしていました。最後の最後までがんを治すことができると信じていました。
「笑いたいんや、私。笑うと元気になれるやろ」と、本当に苦しい状態にもかかわらず、亡くなる2日前に、笑えるDVDを送ってもらいたいと私に電話をかけてきました。
体を温めたらいいと私が言えば、母の介助が必要なくらい動くのがしんどい状態でも、毎日、お風呂に入り続けました。
本当にいつも生きる方法を考えていました。
彼女は本当に優しい人でした。常にまわりの人のことを考えて行動する人でした。
築地の国立がんセンターに行ってセカンドオピニオンを聞いたとき、きっと藁にもすがる思いがあったであろうに、一緒に先生の話を聞いて、打つ手がないことにショックを受けていた私に「悪いことをした」と後で母に言って泣いていたそうです。
リンパ療法も、15分に一回トイレにいかないといけないくらいつらい状態になっても、私がせっかく探してくれたからと2週間に1回、高松から松山までの2時間近くの道のりを通い続けました。
本当に優しさにあふれている人でした。
姉は41歳で亡くなりました。日本人の平均寿命の半分です。
姉はその41年を、優しい友人たちに囲まれながら、楽しく、明るく、全速力で駆け抜けていきました。
本当にかけがえのない姉でした。私はこのような姉の弟に生まれて本当によかったです。彼女のおかげで私も家族も本当に楽しい時間を過ごさせてもらいました。
これからはその思い出を胸に、彼女が生きたかった分、長く、そして、彼女のような優しい人間になれるよう、天国の彼女に見られても恥ずかしくないよう、がんばって生きていきたいと思います。
本当に、ひかりを応援し見守ってくださっていたみなさん、ありがとうございました。
今、闘病中の方もいらっしゃることと思いますが、天国からひかりが、その名の通り、「光」となって見てくれていることと思いますので、がんばってください。
みなさんに、やさしく暖かい『ひかり』がおとずれますように。。。
ゴン
いまひかりが愛用していたパソコンに向かって書いています。
私たちの最愛のひかりが、2008年9月27日の土曜日 21時36分に、家族、友人に見守られながら、旅立ちました。
このブログを読んでくださっていた方々は、更新がないことを非常に心配してくださっていたのではと思い、ひかりの友人とも相談した結果、弟である私が、その報告をさせていただくことにしました。
まだ心の整理などできていない状況ですし、当日は気が動転していたこともありますのでひどい文章になってしまいますが、亡くなった当日の様子を書かせていただきます。
ーー
ひかりが最後に投稿したブログの後、先週の火曜日に、あまりにしんどくなった本人の入院したいとの要望で入院しました。
この1ヶ月で2回入院していましたが本人としては入院したらまた元気になって退院できると思っていたのかもしれません。
そのような本人の望みに反して土曜日の早朝、それまで母にあれしてこれしてと注文の多かったひかりが、突然、目を覚ませなくなり、昏睡状態のようになってしまったそうです。
あまりに目を覚まさないことを不安に思った母からの指示で15時頃に弟から私に「ねーちゃんがやばいかもしれん。早く帰ってきてほしいってお袋が言ってる」との電話。
16時半の飛行機に飛び乗り18時半頃に病室に到着したときには、かなりしんどそうに息をしていて、呼びかけにも返事ができない状態でした。ただ、返事はできないもののしっかり呼吸はしていましたので、まだ少しは時間に余裕があるかなとは思っていました。
実は前日の金曜日に母は主治医の先生に呼ばれ、「がんが全身に拡がっている状況で、腹水もたまっており、もうかなり危ない状態です」と言われ、覚悟をしていた母からの「10月いっぱいくらいでしょうか」との問いにも「それはかなり難しいと思います」との回答があったのですが、私はその日にその話を電話で聞いていました。
ですから、長くはないと覚悟はしていましたが、まさかそんなにすぐには来ないとも思っていました。だから、ひかりの様子を見た後でも、横浜で準備をしてくれていた妻には「数日は大丈夫じゃないか」と伝えたほどです。
しかしながら、時間を追うごとに呼吸が荒くなり、肩で息をするようになってきました。きっと20時ごろだったのではなかろうかと思います。
病室には彼女が危ないという知らせを受けた親戚や友人の方々が次々と訪れてくれていました。ひかりの様子を見た後のみん
なの顔は、悲しみというよりも、彼女の突然の状態の変化が信じられない驚きの表情の方が多かったのではないでしょうか。
私は彼女の友人たちに場所を譲り、待合スペースのような所でいました。
そこに、知り合いの方から21時ごろに「どうも心電図が弱ってきてるって看護師さんが言うてるで」との連絡。
病室に入り、姉の枕元に行くと、激しかった呼吸がどんどん小さくなってきてました。何も聞いていなければ落ち着いてきたのかなと思うほどです。でもその呼吸は安定というより、どんどん弱く。。
そして、家族や友達の、部屋からあふれだすほどの彼女の名前を呼ぶ声がひびきわたる中、彼女だけが静かに、ゆっくりと、本当にゆっくりと呼吸をすることをやめていき、ついにその呼吸は止まってしまいました。
主治医の先生のチェックの間に少しの静けさが漂った後、「私の時計で9時36分です。」との言葉で、今度は嗚咽と涙が病室にあふれました。母の「こんなのいやや」と泣き叫ぶ声がみんなの涙をさらに誘いました。
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私の力不足でちゃんとは伝えられていませんが、このような最期でした。
彼女は非常に我慢強い人でしたし、7月くらいからは、自宅で痛みと闘う生活を続けてきていたようでしたので、簡単にそんなにつらい思いをせずに亡くなったとは言えないですが、それでも、あまり苦しまなかった最期という表現はできるのではないかと思います。
日曜日に通夜、そして月曜日の今日、お葬式と火葬を行い、初七日まで無事に終了しました。
この3日間、ひかりを愛してくれていた友人の方々には本当にお世話になりました。私たち家族はみなさんの愛情に支えられました。本当にありがとうございました。
最後に少し長くなりますが、姉の死に際しての私の気持ちを書かせていただきます。
覚悟をしていたとは言え、本当に悔しくて悔しくてなりません。
なぜ姉のような優しく愛される人がこのような目にあうのかと本当に思います。
姉は、自分ががんであることが分かってからも、「私は今までやりたいことをやりたいときにやってきたから、死ぬのは怖くはない」って言ってました。「死んだらおばあちゃんに会えるし」とも言っていました。
でも、それでも、自分が母より先に死ぬと彼女がつらい思いをするから一日だけでもいいから母よりは長生きしたいというのは一番の希望だったと思います。
姉は本当に生きようとしていました。最後の最後までがんを治すことができると信じていました。
「笑いたいんや、私。笑うと元気になれるやろ」と、本当に苦しい状態にもかかわらず、亡くなる2日前に、笑えるDVDを送ってもらいたいと私に電話をかけてきました。
体を温めたらいいと私が言えば、母の介助が必要なくらい動くのがしんどい状態でも、毎日、お風呂に入り続けました。
本当にいつも生きる方法を考えていました。
彼女は本当に優しい人でした。常にまわりの人のことを考えて行動する人でした。
築地の国立がんセンターに行ってセカンドオピニオンを聞いたとき、きっと藁にもすがる思いがあったであろうに、一緒に先生の話を聞いて、打つ手がないことにショックを受けていた私に「悪いことをした」と後で母に言って泣いていたそうです。
リンパ療法も、15分に一回トイレにいかないといけないくらいつらい状態になっても、私がせっかく探してくれたからと2週間に1回、高松から松山までの2時間近くの道のりを通い続けました。
本当に優しさにあふれている人でした。
姉は41歳で亡くなりました。日本人の平均寿命の半分です。
姉はその41年を、優しい友人たちに囲まれながら、楽しく、明るく、全速力で駆け抜けていきました。
本当にかけがえのない姉でした。私はこのような姉の弟に生まれて本当によかったです。彼女のおかげで私も家族も本当に楽しい時間を過ごさせてもらいました。
これからはその思い出を胸に、彼女が生きたかった分、長く、そして、彼女のような優しい人間になれるよう、天国の彼女に見られても恥ずかしくないよう、がんばって生きていきたいと思います。
本当に、ひかりを応援し見守ってくださっていたみなさん、ありがとうございました。
今、闘病中の方もいらっしゃることと思いますが、天国からひかりが、その名の通り、「光」となって見てくれていることと思いますので、がんばってください。
みなさんに、やさしく暖かい『ひかり』がおとずれますように。。。
ゴン
